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長井長義公開フォーラム

公開フォーラム2

失礼乍らその一番手として、東京大学名誉教授、薬化学教室を主催された首藤紘一先生、お願いできませんか。先生は現在、乙卯研究所長、医薬品情報センター長としてご活躍されていますが、文字通り、長井長義先生の直系、長井教授の後任となった、近藤平三郎教授、落合英二教授、岡本敏彦教授に続いて、四代目をお務めになった先生です。


首藤紘一先生(東京大学名誉教授)
今日は、私は聴き手として参会したのですが、突然の指名なので・・・。
いま映写されている、主催者の考えているこのフォーラムの基礎的な現在過去を提示しているスライドについて、これからはそうなってゆくのかな・・・、と思案している所です。薬学の伝統が精密な化学技術で、いまも長井先生の指導の延長線上にある、はほぼ言い得ているのでしょう。"延長線上にある?"の疑問符は要らないと思いますが。
 長井先生は、有機化学を基本とはされていたのですが、その偏重ではない。例えば、藍の研 究、後継者の近藤先生も、有機合成化学、天然物の研究ばかりでなく、微生物の研究にも取組んでおられました。丁度私が生まれたころ、1940年には、ツヅラ

フジ科の成分として「セファランチン」の特許をアメリカ に出願していますが、おそらく抗結核薬にしようとのお考えからでしょう。現在も医薬として使われています。近藤先生と宮木高明(のちに千葉大学教授)との研究 で、干柿、白い粉が付いているあの柿の成分として、その醗酵したものの糖質の生成を研究し、その変換に係る細菌を取り出しアメリカの特許を出願しています。ビタミンCを製造することを考えたのではないかと思います。ここには「有機化学偏重」から「生物化学の研究に軌道を変換」とありますが、分析化学教室を主宰された石館守三 先生も、決して化学偏重でなく、今日この頃よりも、もっと生物科学、広い薬学を目指しておられたとおもいます。今の薬学の多くの研究者は本気で薬のことを考えてないのではないでしょうか。
 これから、医学との関わりをわざわざ表に出して医療薬学、レギュラトリーサイエンスとかいう、サイエンスに形容詞の付いたソシアルサイエンスの領域の展開が予想されますが、それらが本当の「サイエンス」であるのかどうか、将来を見据えたいと思います。もちろん薬学がサイエンスでなくてもなんら構わないのですが。突然なので、思いつきを喋りました。

コーディネーター:原 昭二
池川信夫先生は、東京大学、九州大学、東京工業大学、理化学研究所で活発な研究をされ、国内のみならず、国際賞を数多く授賞された)、お姿を拝見しましたが、一言お願いできませんか。
先生は、長井、近藤先生の三代目として薬化学教室を継がれたのは落合英二先生ですが、近藤先生の時代、落合先生とともに三羽烏と称されたなは、津田恭介、宮木孝明先生(先ほど首藤先生のお話しに触れられました)でしたが、のちに九州大学に薬学部が創設されるにさいして、津田先生は薬化学教室を主宰、助教授として岩井一成、助手として池川先生が赴任されました。岩井先生がお亡くなりになった今、池川信夫先生は、長井先生に繋がる後継者としての責任を負っている方であり、しかるが故に、この長井記念館の建設にさいしては、設計、建設、運営計画の樹立の基軸となって活動されました。長井貞義さんと心を通じ、竣工式には独逸からシューマッハ家一門を招かれたのです。館内の美術品を収集されたのも、池川先生の努力によるものです。この長井ホールで先生のお付き合いで、宝塚、パリのフォリー-ベルジェールで活躍された「上月晃 こうづき‐のぼる」のミュージカルが上演され、このホールを華やかに演出されたのです。



池川信夫先生(元新潟薬科大学々長、新潟市バイオリサーチセンター所長)
私は昭和26年東京大学医学部薬学科(薬化学教室)を卒業しました。突然の指名なので、戸惑いますが、丁度私が東京工業大学教授として定年を向けた折りでした。この会館の建設が始まり、建設委員長が津田恭介先生、実行委員長が先ほどの紹介申上げた岩井一成先生、私は本部長に指名されました。長井貞義さんから三億円のご寄付の申出があり、担当者として、この地下二階のホールのほか、一階のロビーを整備することができました。一階ロビーの東山魁夷さんのタペストリー「白夜光」、地下のサンクスガーデンに置かれた、DNAをイメージした脇田愛二郎さんのモニュメントなどが整備されました。この位いに止めさせていただきます。



コーディネーター:原 昭二
あらかじめお願いもせず、ご指名することは失礼とは存じますが、石田三雄様、ご参会されていると存じます。
石田博士は、長年(株)三共の研究所に務められ、退職後、近代日本の創造史懇話会を設立され、例えば、三共と深い関係をもたれる「高峰譲吉」の生涯についての歴史を追い、詳細な調査結果を会誌として配布されています。拝読させて戴いた私は、特に高峰譲吉のアドレナリンの発見についての記述に感銘しました。そこで長井先生のお弟子であった上中啓三についてのお話しなど、お話し戴けませんか。

石田三雄農学博士(元株式会社三共研究所)
はじめてお会いした原先生から、突然指名されました。
先ほどの宮田さんの講演にありましたが、長井先生は、ここの土地約一万坪を買われ、そのときの値段が三千円だったそうですから、歴史というものを痛切に感じさせます。
長井先生に直接指導してもらった「上中啓三」という方がいます。渡米して高峰さんの助手となり、半年位の間に、「アドレナリン」の結晶を取り出しました。アドレナリンの存在は、フランスのブルピアンが、1856年、呈色反応によってその存在を発見していたのです。副腎組織に含まれる血圧上昇、強心、止血作用のある成分を取り出すため、欧米の学者が必死になって組織からの抽出を試みていたのですが、以来43年、これを捉えることは出来なかった。上中さんは、あっという間に結晶化したのですが、その手法は長井先生の直伝で、微妙にpHを調節するなど、

サンプルを丁寧に穏やかに扱いました。アメリカのエイベルは、ベンゾイル化して抽出することに固執して、結果として不成功に終わりました。この物語りを知ったとき、私に欧米と日本の文化との違いを感じさせたのです。西洋人は狩猟の民族であるのに対して、日本人は農耕民族として、雨が降らなければ、雨が降ることを祈る。そして長雨が降るときは、天気になれと祈って待つという、自然の運命が自分の方に来るのを待つという対応が西欧との違いです。
それから私は長井さんのことを調べました。すると長井先生の孫娘さんが上中さんの長男と結婚し、親戚になっているのです。上中さんの奥さんの「八重野」さんがインタビューで答え、当時の長井先生の月給は百五十円だった。したがってこの土地を買った三千円の返却は、奥さんのテレーゼさんが苦労してやりくりされたそうです。長井先生のフロックコートは、全部奥さんのテレーゼさんが仕立ていた。この話しは私を楽しませます。そのご夫婦の苦労から、ご自身の業績のほかに見事にお弟子さんの上中さんを育てたのですから。
上中さんは、いまでは大阪大学薬学部になっていますが、当時の大阪薬学校(薬専)を卒業して薬剤師となり、一度は働いたのですが、東京大学に入りたいと思ったのです。当時は旧制の高校を出ないと本科に入れない。そこで東京帝国大学の薬学選科に入った。選科というのは、本科との間に大きな差別があったようです。高名な哲学者の西田幾多郎先生についてですが、先生は旧制高校の四高で学ばれたのですが、御自身が学校のやり方が不満で中途退学したので、後に東京帝国大学の哲学選科に入ったそうです。ところが選科生は、図書館の中で、書架から自分で本を取り出したり、館内で本を読むことは許されない。仕方が無く、廊下に置いてあった椅子に座って読んだと随筆に書いておられます。同じ時にいた上中さんも選科生は偉くなれない、と感じたのだと思います。上中さんは、一念発起、英語を勉強してアメリカに渡ったのでした。そして大きな発見をされたのです。
このくらいで失礼します。



コーディネーター:原 昭二
今日ここにお見え戴きました学士院会員であられる山川民夫先生は、先年、東京薬科大学学長を務められた折り、私は教授会の一メンバーとして末席を汚しておりました。以来ご好意を甘受させて戴いております。日本最高の学者をもって構成されるアカデミックな学士院、しかもその中核をなす医学部門を牽引するお立場の先生ですから、私が軽々しくお願いすることは出来ない筈の山川先生、薬学にも御造詣が深く、日本薬学会の名誉会員であられる先生、一言お言葉を賜りたいのですが。お願い出来ましょうか。
長井先生は大澤謙二先生と大学東校時代の親友でしたが、大澤先生は東京大学医学部生化学教室初代と伺っていますので、東京大学医学部生化学講座の教授を務められた山川先生は、大澤先生とご縁が深いのではないでしょうか。



山川民夫先生(東京大学名誉教授、(財)微生物化学研究会会長、アメリカ生化学会・日本生化学会・日本脂質生化学研究会・日本薬学会・日本糖質学会・日本神経化学会・日本臨床生化学会・各名誉会員、理化学研究所フロンティア研究システム研究推進委員をつとめられている)
私は東京大学医学部を出て、同じ医学部内であった薬学でもお世話になり、当時は東京帝国大学でしたが、付置されていた伝染病研究所(昭和42年改組されて東京大学医科学研究所)で研究生活を送りました。今日は、原さんが電話を掛けてきて、こういう会があるから出て下さいとのことでしたが、予定があったので、間に合ったら、と申しておいた次第です。ところが今日は会議が早く終わり、駆けつけることになったのです。私は米寿を迎えた今、昔話しか出来ませんが、歴史を繙くと、「生化学」のルーツは、「生理学」にあって、そこから分かれたようです。110年くらい

前、明治24年になるでしょうか、大澤謙二先生が最初に医学部に「生理学」の講座をつくられた。のち「化学」が関わって各分野で生物化学が力を得て、農学部では鈴木梅太郎先生が主催する「農芸化学」となり、明治30年医学部に「医化学」が生まれたのですが、さらに柿内三郎先生によって「生化学」に変えられ、日本生化学会が生まれました。私は先生の定年の最終講義を聴きました。昭和十六、七年ころのことです。ドイツでも、Biochemie というのは、やはり生理学から分かれたのです。生理学の研究に化学の方法を使おうではないか、という学者たちが集り、生化学会が出来たのです、てすからかなり生化学会はドイツでも新しいのです。
昭和20年のこと、戦時中です。大空襲があって、この辺は焼け野原になったんです。電車は走りませんので、そのころ東横線の都立大学に居住していました私は、白金の伝染病研究所に行くのに、渋谷を通り、近道をしてみよう、として、この辺りを歩いていたのです。今でも思い出しますが、広い場所があって、その一角に、やや目立つ家が建っていました。女性、男性が数人が談笑している様子でした。人の屋敷に入ってしまったのでは、と気付いたのですが、そこ長井邸だったんですね。不思議にも鮮明に思い出します。また聞きですが、長井先生の二代目に当たる落合先生が、長井先生の御子息に迫って、この場所を薬学会のために譲って欲しいといわれ、この地に日本薬学会の会館ができたとのことです。長くなりますから、私の話しはこの辺で終わることにします。


コーディネーター:原 昭二
山川先生、貴重なお話し、有難うございました。先生は、医学の大御所ですが、薬学には造詣が深く、ご理解と好意をお持ちなので、薬学界が、いま医学とのコラボで活動することが重要になっているとき、先生は医学、薬学を結ぶ要めとして双方のお世話を戴きたくお願い申し上げます。

すでに映写して、皆様に提示申し上げたように、われわれ薬学の誇るべき伝統は、精密な化学技術と思いますが、それは長井長義先生の指導の取り組みであったか、そういい切ることには抵抗もおありとぞんじます。長井先生から始まる「薬化学教室」の五代目に当たる首藤先生は、先ほどのお話しの中で、肯定されておられました。私このフォーラムの水先案内人は、長井先生の伝統の末裔と自任していますが、いま映写しているのは、薬学の研究には欠かせないクロマトグラフィーのカラムです。混合物の染料が、このガラスカラムの中を通過するさい、各成分に分離され、順次にカラム端から流れ出して行くさまを示す写真で、ここに参加されている草野科学器械との共同開発によるものです。ガラスカラムは、外から状況がすっかり見えるので、使いやすい利点がありますが、通常は高圧をかけるためにステンレスのカラムが使われます。クロマトグラフィーのカラムの性能は、理論段数という数値で表すのですが、このカラムの段数は、世界最高を誇り、ステンレスカラムにも引けをとりません。アメリカ、ドイツ、日本特許を取得しています。しかし販売されている草野科学器械の話しでは、気に入られたユーザーは、上手に使ってシリカゲルを充填したカラムを長期にわたって使用し、修理をしても買い替えをしない、したがって営業活動には寄与しないのです、とのことでした。残艶なことですが。

クロマトグラフィーには、今紹介した液体をメディアとするものの他に、気体を使うガスクロマトグラフィーが使われますが、池川信夫先生は、島津製作所とのコラボにより、世界のトップをゆく技術を確立されました。
そしてもう一つ、草野科学の技術を担う、草野修君、お見えになっていると思いますが、是非パネルの写真を皆さんにお見せ下さい。そして部品を回覧して下さいませんか。これは、有機化学、無機化学にとどまらず、生物化学領域でも必須になった溶剤のエバポレーターです。実験室で昔から欠かせなかったのは、蒸発装置と器具なのですが、かつては水道の水を流しっぱなしに使う、水流ポンプがもっぱら活躍していました。ここにお目に掛けるエバポレーターは、擦り合わせたガラス筒を、気密のまま回転させるものですが、戦後に現れた、合成ゴムのOリングと擦り合わせガラスによってつくられています。日本で最初に完成させたのは、草野科学器械で、東京理化器械によって、市販にいたりました。
有機化学、合成化学、天然物化学の領域で、また絶対不可欠の技術は、成分元素の定量分析です。微量の検体、数ミリグラムの炭素、窒素の分析は、微量の試料などを測るミクロ天秤、試料を燃焼させて計測する装置を最初に完成させたのは、オーストリーのグラーツの大学で、プレーグル先生によって開発されたのです。現地でこれを学んだ落合教授、さらに湿気の多い日本で、器具に付着するための誤差に苦労しつつ、その風土に合った技術を完成させたのは、津田先生でした。戦前においては、日本広しといえども、また各地の理学、工学ほかの諸大学、製薬、化学企業の何処でも炭素、水素、窒素のミクロ分析は行なわれていませんでした。東京大学薬学部の元素分析室は貴重な施設だったのです。これからご紹介させていただく渡辺敬三先生は、乙卯研究所と東京大学薬学部元素分析室のエキスパートであられたのです。

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