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長井長義公開フォーラム

宮田親平さんの講演のあらまし:2







ドイツに着いた長井先生はホフマンの弟子になります。ホフマンはリービッヒの高弟で、化学染料の合成をもって、ドイツを世界最高の化学工業王国に導いた方です。ところが、そのあとが凄いんです。長井先生は留学生として十五年もの長期間滞在します。留学生の滞在記録を調べたところ、農芸化学の鈴木梅太郎先生が五年でしたし、三年ぐらいが普通で、長井先生のように十何年という方はいません。その間の生活は、というと、最初は文部省の官費ですが、鈴木先生の場合は、極めて優秀だから延長するという事態になったのですが、一方、長井先生の場合は助手として採用されます。学生の立場を越えて、有給の研究者として滞在することになった。当時は希なことだったに違いありません。
日本で「化学」の研究を充実させるためには、長井先生を必要とする、という柴田承桂先生たちの要請で、先生は帰国することになります。しかし、その前に有名なドイツの女性とのロマンスが生まれます。「この人長井長義」の著者の原さんの記述は、熱気を帯びてきます。外国人女性とのロマンスは、高峰譲吉のアメリカ女性との物語りと対をなし、まさに双璧です。これはホフマン先生のおすすめで、ドイツ人女性は、夫のためなら水火を辞せず、なのだから、是非ドイツ人女性を嫁に貰いなさい、と云われるのです。ここに私の家内が来ているといいんですが(会場に微笑むものあり)。長井先生はフランクフルトのホテルで食事の時に、隣りの席に素晴らしいお嬢さんを見付けて一目惚れする。そのあと偶然もあり、一緒にオペラを見る。この女性はライン河の支流のモーゼル川に臨んでいるアンダーナッハという町のシューマッハ家のテレーゼさんでした。この薬学会館に在るレストランの「テレーゼ」は彼女に由来します。
私はドイツが好きで十何回も行きました。残念乍ら私は、実務的なドイツ女性には会いましたが、可愛らしい、といった方と接したことが無いのです。イタリアの女性は可愛いらしい、というのは私にも実感ですが。テレーゼさんを見初めた長井先生は、云い方もありましょうが、率直に言って、実に大当たりと申すべきでしょう。写真を見てもエレガントですね。しかし彼女は名家のお嬢さんですし、両親も遠い国に行ってしまったら、もう一生会えないかもしれないのです。日本人と中国人と見分けはできないので、彼女のお兄さんは「お前はよくキネーゼ(中国人)を釣ったもんだね」と言われたそうです。それをシューマッハ家に対して説得したのは、ホフマン先生でした。ともかく長井先生は婚約して明治十七年、日本に帰ります。
東京大学教授となり、研究をはじめ、偉大な業績として知られている、漢方薬から「エフェドリン」の発見、明治十九年、私費で再渡独、アンダーナッハにおいて結婚式を挙げ、テレーゼさんを日本に連れてこられたのです。間もなく、いま日本薬学会が所在するここ渋谷に一万坪近くの土地を求め、お屋敷を作ります。この古図を見て分るように、宮益坂があり、金王坂があります。一万坪というのは、実に迫力ですね。原先生の本によれば、テレーゼ夫人は賢夫人で、苦労して金策を付けたそうですが、こうして立派な長井家が誕生しました。

ここに不思議なことが起ります。長井先生は、ご自分では東京大学の理学部教授として日本に戻られたのですが、薬学部に移られることになります。これは私にとって大きな謎なのですが、その一つの理由として伝えられるのは、理学部の桜井錠二教授との確執にあるようです。長井先生は、東京大学当局から、理学部教室の建設を依頼された。先生は理学部化学科のみならず、工学部の応用化学科、医学部薬学科など、化学に関係する一切の学科の建物を一つに纏め、しかもホフマン先生の考えのように、化学の建物は、不燃の構造にすべきだ、と提案したのです。私はかねて日本の大学は、あまりに縦割りになっているように思うのです。この観点で、長井先生のお考えには先見性があり、正しかったのではないでしょうか。
長井先生が薬学へ移り、またそのころ、帰国して農科大学長をつとめていた丹波敬三という先生も、薬学に移りました。それらの経緯は詳らかではありませんが、私がかつて理化学研究所の歴史(「科学者の楽園をつくった男」)を書くさいに、調べておりましたとき、東北大学で有機化学の研究をされた真島利行先生の談話が出て参りました。それによると、どうして理学部に有機化学が無いかというと、長井先生は理学部の有機化学講座の教授に内定していたのですが、先生がそのころ渡独して、ドイツ人の奥さんを連れて帰ってこられた。英国で勉強し、独逸嫌いであった桜井錠二は、長井が渡独して、帰国が遅れたことを理由として、教授のリストから外した、というものです。私は事情はどうであれ、長井先生が薬学に来られ、以来薬学で多くの研究者を育てたことは幸いであった、と思うものです。
長井先生は、薬剤師教育と、女子教育にも熱心であったことが、新書「この人長井長義」に出て参ります。この写真は、日本女子大学の理学部で女子の化学教育をされている長井先生、そして

長井先生の指導で、最初の薬学博士となられた鈴木ひでるさんという方が写っています。
またこの写真は、長井家の皆さん、長男の亜歴山さん、次女のエルザさん、次の写真には、次男の維里さんが写っています。維里さんは東京大学化学科出身、音楽を愛好し、東京大学管弦楽団の指揮者として活動されました。私は音楽が大好きで、学生の頃、演奏会に行き、思い出すことは、たしかピアノは藤田晴子さん、曲目はベートーベンのピアノ協奏曲の第一でしたか、第二でしたか、指揮を取られていたのが長井維里さんだったのです。維里さんは、化学者として、戦時中ペニシリンの製法が独逸から秘密に伝えられた折りに、その翻訳をされたという歴史も残っています。今日はこのあと、維里さんに因んで、東京大学管弦楽団OBの「アマデウス」の皆さんが、講演とフォーラムを繋ぐ間奏として、室内楽を演奏され、私たちに聴かせて下さいます。
最後に申し上げます。科学ジャーナリストとして活動してきた私は、いろいろな学問分野に触れてきましたが、何を措いても「歴史」を調べ、繙いて下さい、と皆様に申し上げたいのです。
そのことについて申し上げたいのですが、自然科学には数学、物理、化学、そして生物学があります。そのなかで最も基礎になるのは数学で、今日社会科学でも人文科学でも数字が明記されていないのは、科学と認められないくらいです。私は仕事柄数学から医学まで多くの科学者に会いましたが、そのなかでノーベル賞を受賞された福井謙一先生が、化学が専門でありながら量子力学を重点的に勉強されたというお話を聞き、とても感銘を受けました。つまり、今言った順番で科学者はできるだけ基礎に近い学問に接しなければならないのです。
その意味で今回は、ノーベル賞をお受けになった薬学出身の下村先生のご研究が生物学・医学に貢献しているのを見るのは、ある意味で長井先生が蒔かれた種が大輪の花を咲かせたといってよいでしょう。しかも長井先生が勉強された長崎から出られて来たわけですから。これはとても嬉しい限りであり、薬学が大いに誇りにしてよいことです。
21世紀は生命科学の時代であるといわれています。となると、化学を基礎として生物科学との隣接領域である薬学はこのうえなく有利な立場にあり、まさに長井先生の先見性が生かされようとしています。
私は一般ジャーナリズムに生きて、資源がないこの国が生きて行くには科学技術が不可欠であることがいかに知られていないかを痛感してきました。偉大な先輩を持った薬学が大いに頑張って欲しいものです。しかし同時に公害、薬害の取材を通じて科学にはチャージの部分とディスチャージの部分があることを十分に知りました。たとえばエフェドリンの類縁化合物からメタンフェタミンが生まれてきたように。人間味に溢れた長井先生のように、人間と科学の関わりについても学んでいただきたいと思います。
この有意義なセミナーを企画、実行された原先生に敬意を表しながら、ご静聴を感謝します。

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