CREATIVE BOOK「首都圏人」:首都圏に居住する人々の、クリエイティブな暮らしを支援する生活読本

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長井長義公開フォーラム

宮田親平さんの講演のあらまし

前置きになりますが、主催者すじから、今日は自分自身で自己紹介する事、と指図されていますので、まず自己紹介させていただきます。私は一介のジャーナリストの立場で、皆さんにお話しすることが使命と考えます。今日おいで下さった皆様は、日本の平均年齢より上の方が多いようにお見受けしますが、若い方もおられ、月曜日であるにも拘わらず、私の話しをお聞きになるためにお出掛け下さいましたことを感謝します。
ではジャーナリストとは何かと問われますと、「自分の事はさておいて、他人のことを論う(あげつらう)職業です。ともかく私はこの仕事についてすでに五十年余りを閲しています。かつて日本薬学会の会員誌「ファルマシア」の取材を受けた折り、インタビュアーの南原利夫先生(元星薬科大学々長)から「君は薬学を出たのになぜ文芸出版社に入ったのか」と質問された事があります。私は「先生、それは間違った質問ではありませんか、もう分母の大きさが違ってきたので、君はどうして薬学に入ったのか、と聞くべきでは」とご返事申し上げました。要するに薬学の落伍者です。
実は薬学に入った私は、石館守三教授の指導を受けましたが、分析化学の実習において、試験管を自由自在に操る名人芸の友人が多かったのです。ところが私はむしろガラス器具をこわす名人とされ、スポイラーという異名をもらいました。もう一つ、そして私は小説を読むのが好きで、壁に貼られた求人募集の中にあった「文芸春秋社」に応募する事を、いわば発作的に決めたん

です。受かってしまいましたが、一度は撤回を考えたのですが、池島信平さん、後に社長になった方ですが、「君入社しないか」と勧められ、この道に進む事なりました。
ところがです。皆さん、自分の趣味を仕事にしてはいけません。入社してから、しまったと思いました。小説を毎日沢山読まされるんですよ。「芥川賞」「直木賞」の季節がくると、机の上には、堆く原稿が積み上げられます。自分はどうなってしまうのか、さて退却はしたいがときすでに遅く、もう辞められません。ところが転機が訪れました。1960年の事です。有難い事に、アメリカのある財団のスポンサーがついて、「欧米のサイエンスの研究所を訪問してこい」、と云われ、著名な研究所である、「スエーデンのカロリンスカ、ドイツのマックス・プランク、フランスのパスツール、英国のチェスタービーティーらを訪問し、さらにアメリカの西、そして東に所在する著名な研究所、ブルックヘブン、スタンフォード大学などを見学、コロンビア大学では、シンポジウム、セミナーに参加する機会を得て、アメリカの科学ジャーナリストから、記事の書き方などを教えてもらいました。私にとって非常に役に立つ機会となりました。このようなチャンスを与えられたので、いつかは社会にこれを還元するのは務めだと思ったことでした。
ところがです。出版界に「週刊誌」ブームが訪れ、これを出さないとわが社は危殆に瀕する、という事態となり、私に「週刊文春」の編集者、そして責任者という役目が廻ってきました。以来10年は、個人的には、まさに暗黒時代でした。週刊誌には、名誉毀損、・・・など、多くの世情の問題が出現して参ります。ところが私はサイエンスを学んだのだから、との思いが常にありました。また池島社長も、社内に数少ないサイエンス担当者として活躍するように、との意向をもっておられたので、ようやく元に戻って科学記事に取り込むことができたのでした。
その初のテーマは「原子力」でした。ジャーナリズムは、まず社会に対して反応します。いわば社会から受注する、とでも申しましょうか、自ら先に立って行動するという事はなかなかできないのです。つぎには「人工衛星」のテーマに取り組みましたが、ついで「公害」「薬害」の課題が出てきました。高橋洸正先生に会うなどし、始めには、こんなことも、と思ったのでしたが、取組む中に、社会全体の勉強として、欠かせない問題であるとの認識に立つ事となりました。非常に良い勉強になりました。
その後「渡辺格」先生の本を担当することになり、生命科学、バイオリサーチ、テクノロジーの分野の勉強をすることができました。次に社会には「健康ブーム」が訪れ、さらに医療記事を書くことになり、10年の間に全国、600もの病院を廻ると言う仕事になりました。世は医療変革の時代となったのでした。

突然の事ですが、過日新書判「この人長井長義」(の原博武著)という本が自宅に届けられました。
私の机の上には、すでに永い間「長井長義伝」(金尾清造著)が置かれていたのです。この本は、(社)日本薬学会の事務局長をされていた石坂哲夫先生から、たしか30年くらい前に頂戴した本です。長井先生という偉大な先生の伝記なのですが、分厚い本でしかもなかなか専門的なので、仕事が忙しいことが多く、しばしば拾い読みをするに止まりました。そこで常に私の机に鎮座していたのです。しかしたびたび開けたものですからここにお目にかけるように、まるで分冊されたような状態で千切れています。
この新書判の本、「この人長井長義」の著者、「の原」さんの表記は変です。苗字にかなが使われるとは。このごろ、「さいたま市」などに仮名書きが使われていますが。しかしこの「の原」さんはペンネームで、本名は、この本の奥付けを見るとき謎が解けるような仕掛けになっています。東京薬科大学名誉教授の原先生でした。早速拝見しました。金尾先生の本では難解な箇所が多かったのですが、平易に書かれています。そこで今日は、新しく出版された、この新書判を参考にして、長井長義先生の生涯を辿ることにしたいと思います。
今回の長井長義公開フォーラムの始めに、私に話しをさせて戴く機会を与えられたのは光栄と存じます。
長井先生は、徳島のお生まれです。ときは明治維新の前、徳川時代、幕末のことになります。お父さんは徳島藩の典医、琳章の嫡子としてお生まれになり、幼名は「朝吉」、名前を変えて「長安」となり、そして「長義」となったのです。「長安」は、医者風の名前で、父琳章の意向であったようだが、長井先生は医学から薬学に転向したために、これを「長義」と改めたと、著者は述べています。大変な秀才で、慶応二年に蘭学の修行のため、長崎に派遣されました。
長井は「せいみかいそう(舎密開宗)」という、宇田川という人がオランダ語から翻訳した化学の本を携え、オランダ人のハラタマ

に化学を学ぶつもりだったようです。しかしハラタマは江戸幕府に招かれて、そのチャンスを失い、医学の勉強をしたのでは、とも考えられます。ときは江戸幕府が崩壊して明治維新の時代、そのころ秀才が全国から集ったったのは新しくできた「大学東校」、東京大学の前身に当たります。そこで先生は東校の少助教石黒忠悳(ただのり)の知遇を得、明治三年、明治政府第一回の海外留学生に選ばれます。十一人の一人としてす。大変なエリートだったんですね。
この写真は、長崎におられた時に撮られた写真ですが、日本の写真術の開祖といわれる上野彦馬が撮影したもので、長井先生は写真に関心が高く、それが化学の専門家となる一つのきっかけとなった、と原先生の本に書いてあります。
長井先生はアメリカを経由してヨーロッパに向いました。普通インド洋を経由して行くのに、何故アメリカを経由して行かれたか、またそのあと岩倉具視一行の海外使節団もアメリカ経由だったのですが、これにはそれなりの理由があったのです。実はスエズ運河ができるかできないかのころですから、アメリカ経由による他なかったのですね。サンフランシスコに着き、その対岸のオークランドから大陸横断列車に乗り込みました。
私は鉄道マニアでして、アメリカ大陸横断を二度試みました。一度は途中でドルが無くなって挫折してしまったのですが、二度目には実行できました。長井先生の横断記録を見ますと、私が通過した駅が出てきます。オグデン、ソールトレークなどですが、ただしサンフランシスコからロッキー山脈を越えるとあるのは、長井先生の記述の誤りです。例えばサンフランシスコから最初に越えるのはロッキーではなくシエラネバダです。ロッキー山脈はもっと遠くです。この本に掲載されているブルーマー・カットの銅版画は、長井先生のあとで渡航した岩倉派遣団の記録ですが、ロッキーの南を越えるあたり川沿いでの大峡谷で、最近このコースになっているようですが、これに対して私が通ったときにはワイオミング経由で一面の大高原となり、一駅の間隔は列車で三時間もかかります。先生も大平原を通ったとありますので、私はまさしく先生の道のりを通ったことになり、嬉しく思いました。
私は長井先生が、アメリカを通過してヨーロッパに渡ったのは、大変良かったと思うのです。ヨーロッパのいわばコピー文化のアメリカに触れる事で、ヨーロッパで受けるカルチャーショックが和らげられたのではないでしょうか。大西洋をわたり、リバプールに着いた長井先生は、ドイツに向うのですが、五人であった一行のうち、四名がロンドンに滞在するので、ドイツに行くのは長井先生だけとなります。当時の留学生の心情を思うと、前途が未知の外国で、国家の期待に沿うようにと考える事は、如何ばかり重荷であっただろうか。と私は思います。

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